2013年3月17日日曜日

余命告知

もうひと月ほど前になるが、
近藤誠著「がん放置治療のススメ」という本を読んで、
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8C%E3%82%93%E6%94%BE%E7%BD%AE%E7%99%82%E6%B3%95%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E2%80%95%E6%82%A3%E8%80%85150%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%A8%BC%E8%A8%80-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E8%AA%A0/dp/4166608576/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1363505467&sr=8-1
それなりに僕がガン告知を受けたら「コレで行こう」と思っていた。
そうしたら今日、ステージがかなり進んでいて
余命宣告をされた人とお会いする機会を得た。
頭で理解するのと、現に自分の身にそれが降りかかった人とのギャップを
感じたが、
その人が置かれた状況をしっかりと受け止められている様を拝見して
逆に余命を告げられていない我が身の
生きている時間をもっと大切に過ごすことを教えられた気分。
とはいえ、僕だって余命100年あるわけじゃなし!
頭で考えられるレベルで言うと
心臓が動き続けるという意味での生にそれ程の価値があるわけでもなく
人生というのは楽しい事ばかりでもなく
日曜日の朝、ずっと寝ていたいと思うぐらいなら
それを叶えられるわけだし
医学用語で言うところのクォリティ・オブ・ライフではなく
どれだけ人生を楽しんでいるかという意味での
クォリティ・オブ・ライフこそが大切なんだと改めて考えさせられた。
死生観もイロイロあるが
「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」というリチャード・ドーキンスの言葉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%B7%B1%E7%9A%84%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90
多少宗教的なニュアンスはあるが
OSHO(またの名をバグワン・ラジニーシ)の
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%B7
墓碑銘に刻まれているという
「OSHOは19xx年から19xx年まで、この地球にいた」と言う言葉とかが
その辺りが僕には理解しやすい。
ちょっと生きることの居住まいを正そうと思わされた午後だった。
と言っても、まだ頭での理解レベルだが

追記:自分が最期の時を迎えた時、どうしたいか?
どうされていたいか?を考えてみた。
誰かにそばに居て、話し続けていて貰いたい。
ちょうど、レ・ミゼラブルで
フォンテーヌの最期にジャン・バルジャンがそうしていたように
エポニーヌの最期にマリウスがそうしていたように


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