昨日のことだ。
友人から、「能」のチケットが余ってるんだが、、、と言う電話。
正直言って、興味はそれほどないのだが
「ま、何事も勉強」、とはいえ、昔そう思って見た「能」
舟を漕いだ記憶もある。
今回は、イヤフォンで同時解説が付くとのこと。
さらに、女房は、その手の教養物が好きなので
夕方、二人で出かけた。
以下が、戻ってすぐ書いた印象だ。
楽しくはなかったが、「いい勉強」になった。
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「舞い」なら、舞え、
太ったオッサンの女形、それが伝統ならば仕方ないが、、、
かつては、エンターテインメントであったはずだ。
形を保存するのは良い、が
形だけで、何も訴えかける中身がない。
オウラというものは、それを感じるものの側にあると
Ba2君は言っていたが、そして僕もそう思うが
それにしても、オウラを感じない
つまり僕に、オウラを喚起させない。
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「舞い」と言いながら、それが伝統的な所作なのか?
つま先を持ち上げ、床を踏む所作と扇を動かす所作を含んで、
「歩き回って」いるだけ、
身体能力の美しさがどこにも見つけられない。
イヤホンごしの解説は、薄衣を翻して舞うなどと言っているが
いつまでたっても、ユックリした「歩き」が「舞い」になる気配は感じられなかった。
あえて書かせていただけば、伝統を残すことに重きを置いて
進化することをしていない、またはその思いがない?
形を残すことと、形の中の心を残すことは、別ではないか?
形のみ残してしまったように、素人には見えた。
上記は「忘れぬうちに」と書いたメモ書きなので
ずいぶん乱暴だし、
日本の古典芸能に、造詣はもちろん、興味もない僕の感想なので、
あまり「本気」で読まないでいただきたい。
そして、その素晴らしさや楽しみ方を
お教えいただける方がいらっしゃったら
是非、コメント頂けると幸いである。
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