2008年12月17日水曜日

H君、写真のことを考えてみた。

今日は、カメラマン=H氏が午後登場。
毎年だが、僕の好きなスウィートを持ってきてくれた。
話は、結構不景気。
昨今の経済報道の影響を心ならずも受け、

実際「暇」なこともあいまって、気分は曇り空。
その「暇」も理由で、仕事をいつも以上に丁寧に仕上げる。
たとえば、今日は老舗天ぷら屋の店頭ポップ。
撮影だけにとどまらず、ポップのプリントまで引き受けた(最高級用紙まで奢った)

オマケに、求めに応じて文字を入れるデザインまで!
こちらの仕事は、ま、趣味の領域、、、楽しくやらせていただいた。
続きでやったモデルちゃんの宣材も、最高級用紙でプリントしちゃった!
H氏は、'68年生まれだが
自身の写真展でどう写真を撮るか悩んでいるようだ。
さらに、今後の写真家生活をどういう写真でやって行くかも・・・
気持ちは僕も同じだが、

僕には今後の数年しかないが
彼には、今後の20年が有る。
たった数年しか残っていない僕だって
まだまだ、真剣勝負の写真を思っている。

いずれにしても、生きるということは「時間」なのだ。

写真は、まず「写されるものもの」ありきだと、痛感している。
つまり、他者(人とは限りません)への関心や好奇心が
まず動機になるべきで、
僕の場合、
写真を撮る動機や関心、好奇心は、
自分に向いていたり、
真理や原理に向いていたりするのです、
そういう意味では、
僕の資質は、写真家に向いていないのかもしれません。
僕が一番撮りたい写真は、何を撮るかではなく
その写真を見たら、「ああ、世界は分かった」と
世界の存在原理を納得できるような、
一種哲学的な写真なのです。


写っているものは具象でも、表現されているのは抽象。
そんな写真なのです。

すぐに思い出される作例としては、
ダイアン・アーバスの「untitled」の中の、
紙袋を被った知恵遅れの子供達が、地平線の見える草原に並んでいる写真。

撮るモノは、何でもいい。
世界のほころび(真相)のようなものが、そこに写し出されればいい。
それが、僕が自分の作品としての写真に求めるものです。

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