2009年2月26日木曜日

本日逆風なれど、気分はよし。

本日お仕事逆風なれど、マ、それはヨシトスル。
出来る時は仕事をする、
出来ない時は、好きなことをする。
口を出せるときは、口を出し

出せないときは、黙々と撮る。

ヴェネツィアで撮った写真、キーになる一枚を見つけた。
ヴェネツィアには「死」のイメージがつきまとうと、何かの本に書いてあった。
以下長い引用 *************************************************
エリオ・チオル写真集『ヴェネツィア』の前書き
ヴェネツィア-"水"の虚実    辻 邦生

ヴェネツィアが華麗と退廃の中に浮かぶ"死の都"であるという意味は意外と深い。
たとえばトーマス・マンの『ヴェニスに死す』は
この水の都を死の色で縁取り、
それを映画化したヴィスコンティは、
マーラーの「第五」のアダージェットの甘美な解体の陶酔によって、
ほとんど決定的に"死の都"のイメージを仕上げている。
しかし実際は、すでにそれ以前に
ヴェネツィアは官能的な死の匂いに囲まれた都会であった。
「美しきもの見し人は、あわれ、死の手の中にあり」という意味で、
プルーストもヴァーグナーもストラヴィンスキーもヴァレリ・ラルボーも
ヴェネツィアに”死”を見ていたというべきであろう。
事実、ヴェネツィアの美はただの都会美ではない。
都会全体が水の上に浮かんでいるという単純な事実によっても、
ヴェネツィアは何か眩暈のようなものを常にわれわれに与える。
初めてヴェネツィアに汽車で着いた夕方、
私はサンタ・ルチア駅かた広場に駆け出した。
一刻も早く憧れのヴェネツィアの町並みを見たいと思ったからだ。
そして危うく駅前の運河に飛び込みそうになった、
そこは、普通の都会ならタクシーがとまり、人々が行き交う場所だった。
それが一瞬に消えて、黒い水が満々と溢れていた。
この大地の消滅感、それがヴェネツィアの第一印象であり、
消滅感にともなう不安はその後、ヴェネツィアを思うたびについて廻った。
たしかにヴェネツィアは水の上に浮かび、 幻影に似たものとして
”美”を現前させている。
その”美”はもっとも牢固としたものを犠牲にし、
それを無視して存在している-、、、
このことは、当時”美”の意味を長いこと尋ねあぐねていた私に、
魂を震撼するような真実の啓示と思われた。
それは、 ”美”とは、
この世の牢固としたものを積み上げた果てに 実現するものではなく、
逆に、それを完全に否定することによって
初めて到達できる何か飛躍的なものだという啓示。
”美”とはもともと”生”とは無縁の 揺曳するもの、
遊び戯れるもの、甘美に陶酔するもの、
”死”の眼差しで眺められたものに他ならないのだ。
少なくともヴェネツィアについてそれは否定しようがない、、、、
それがそのとき直覚した美の実態だった。
もし私がこうして現実の否定の上に”美”を築いていたとしたら、
ロマン的な観点は一段と助長され、
ヴェネツィアを、 たとえばカーニバルの夢幻的な仮面の綴る甘美な一夜として、
あるいは黒いゴンドラの運ぶ恋と死の接吻の陶酔として、
心に思い描いていたかもしれない。
事実、毎年何十万と世界から集まる観光客の大半は
”水の都”ヴェネツィアにこうした歓楽と夢を求めてやってくるのである。
彼らは、他では見つけられない魔術的な”美”に陶酔しようとするのだ。
すでに十字軍の昔から商人都市として栄えたヴェネツィアは、
抜け目ないしたたかさで、彼らを十二分に満足させる術に長けている。
ヴェネツィアは細かく割れた鏡のように、
それを覗いた人の数だけ、自己満足を用意する。

中略
やや遠回りな導入部となったが、
こうした前置きが必要なほどヴェネツィアはソフィスティケートされ、
観光対象化され、大衆文化状況の中で曖昧化されつつある。
チオルがヴェネツィアを撮る場合、カラーを避け、モノクロに徹したのは、
光と影の鋭い対照によって
”水の都”の正統的な形象に迫るため、と一応言うことが出来るだろう。
それ以上に、色彩がはぐらす安易な誤解が刻々に増大する結果、
もはや媒体としては使用不能になったというのが実情だ。
少なくともヴェネツィアはモノクロの澄明な映像に徹する以外、
その本質をつかむことは出来ないのである。
赤、青、黄が水面に揺らめくだけで、
その鮮やかさが逆にヴェネツィアの本質を隠してしまう、
という奇怪な状況がわれわれを包んでいる。
中略
ヴェネツィアで情緒に遊べるのは、土産物を買い込むのと同じく観光客だけだ。
ここには”水”との闘争が相変わらず影を落としており
豪奢な趣味でさえ”狭さ”という宿命と折り合わなければならない。
チオルはサン・マルコ広場の雑踏、鳩の群れ、メルチェリーア街の賑わい、
リアルト橋畔の市場の庶民風景、カーニバルの歓楽と哀感などは一切排除した。
そこにあるのは『アッシジ』のときと等質の禁欲性であり、
本質化への意思であり、超越的なものへの視線である。
後略
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、、、と長く引用はしたものの、すべてに共感するわけでもなく
その写真集、僕には面白くない部類ではあった。
確かに、ヴェネツィアは別世界、異界≒黄泉の国の イメージはある。
僕の撮ったデジタルRAWデータ、仕上げはモノクロを含む可能性も高い。

チオルが、モノクロで撮ったのとはまったく別の観点から!

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